ぼくはこう思う、みんなはどう?

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【地名】徳川御三家にまつわる地名あれこれ〜地名を読み解くシリーズ第7弾

ろうそくで生活していた大学生のある時期にあわやボヤ騒ぎを起こしかけたぼく(ぼくみん (@b0kumin) on Twitter)です。


【地名】明暦の大火を機にさらなる発展を遂げた江戸〜地名で読み解くシリーズ第6弾 - ぼくはこう思う、みんなはどう?の記事で明暦の大火によって徳川御三家上屋敷(江戸における大名の本拠)は城外に移転されたとご紹介しました。

ここで気になったのが、徳川御三家

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水戸黄門でおなじみの徳川光圀は御三家だということは知っていますが、徳川御三家についての詳細をあまり知らないことに気づきました。

そこで今回は徳川御三家と御三家にまつわる地名を調べたので、ご紹介します。


そもそも、御三家とは。

御三家は親藩(一門)のうちで最高位にあり、将軍家や御三卿とともに徳川姓を名乗ることや三つ葉葵の家紋使用が許された。宗家(将軍家)を補佐する役目にあるとも言われているが、制度・役職として定められたものではない。元は、宗家の後嗣が絶えた時に備え、家康が宗家存続のために遺したものであるとも言われる。

引用:Wikipedia

そして、その祖となる人物は家康の息子たちが担いました。

徳川義直(家康の九男)→尾張徳川家

徳川頼宣(家康の十男)→紀州徳川家

徳川頼房(家康十一男)→水戸徳川家

f:id:hundreds_of_works:20200404200951p:image出典:Wikipedia

時代劇の暴れん坊将軍でおなじみの8代将軍吉宗、実は宗家の血筋ではありません。

7代将軍家継が8歳で死去して宗家が断絶したことをうけて、紀州徳川家から養子に迎えられて吉宗が8代将軍となり、以降14代将軍家茂までは紀州家の血筋です。

そして最後の将軍慶喜は水戸家の血筋(正確には一橋家に養子に入った慶喜が将軍になったため、一橋家からの将軍継承)です。

こうして歴代将軍の血筋を知れば、御三家によって後継者問題が解消されていたこということがよく分かりますね。

 

さて、徳川御三家について調べる中で、御三家にまつわる東京地名が出てきたので、合わせてご紹介します。

f:id:hundreds_of_works:20200405074356p:image出典:Social Studies

明暦の大火によって御三家の三藩は、水戸藩→現在の東京ドームと小石川後楽園尾張藩防衛省市ヶ谷地区、紀州藩→現在の赤坂御用地にそれぞれ移転します。

尾張藩

紀尾井坂、紀尾井町

明暦の大火以前、まだ江戸城内に三藩の上屋敷があった頃に名前がつけられました。

坂の周囲に紀伊(現・清水谷公園や元グランドプリンスホテル赤坂)、尾張藩(現・上智大学)、5人の家老を出した彦根藩井伊家(現・ホテルニューオータニ)の屋敷があったことから一字ずつとって「紀尾井坂」と呼ばれるようになりました。

f:id:hundreds_of_works:20200405081159p:image出典:千代田区環境協会HP

江戸時代の正式な呼び名は「清水坂」でしたが、江戸の住人たちは要となる三家があった坂道であるところから紀尾井坂と呼ぶようになり、のちに後者が定着しました。

周辺の紀尾井町もこの坂に由来して命名されました。

 

紀伊

清水谷公園

井伊家との境目付近が谷だったことと、井伊家との境目付近の紀州徳川家の屋敷から清水が沸き出ていたことから、付近は「清水谷」と呼ばれました。

1878年内務卿だった大久保利通が乗った馬車が襲撃され、紀尾井町清水谷で暗殺される事件が起こります。紀尾井坂の変です。

f:id:hundreds_of_works:20200405082519p:image出典:ジャパンアーカイブ

この事件は人々に衝撃を与え、後に暗殺の現場となった当地に建てられた大久保利通哀悼碑の建立者から当公園付近が東京市(現在の東京23区)に寄贈されたことをうけて、清水谷公園となりました。

 

水戸藩

後楽園

水戸徳川家上屋敷は現在の東京ドーム、庭園は、現在の都立小石川後楽園に位置します。

後楽園徳川光圀が明の朱舜水の意見を採用して命名、完成させた江戸初期を代表する名園です。

弥生町(やよいちょう)

水戸徳川家中屋敷は、現在の東大農学部のある弥生キャンパス(農学部キャンパス)の場所にありました。住所は文京区弥生1-1-1。

なぜ弥生町なのかは、旧徳川邸内の歌碑に由来します。それは、徳川斉昭(1800~60年)の歌碑で、3月(弥生)に詠んだ和歌が刻まれていたことから、向ケ丘弥生町と命名されました。

ちなみに、弥生式土器の名称は、この向ケ丘弥生町で明治17(1884)年に発見されたことから名前が付けられました。

f:id:hundreds_of_works:20200405074731j:image出典:世界の歴史まっぷ

 

最後に。

この記事の一番最初に出た家紋。水戸黄門で「この紋所が目に入らぬか」で出てくるアレです。

実は御三家で微妙にデザインが違います。

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なんなら各将軍でデザインを変えてきています。

「葵紋は徳川家が使用するから、賀茂神社は神紋に葵を使うな」とさえ言ったそう。神社は拒否したそうですが。笑

家紋の意義が薄くなりつつある現在ですが、300〜400年前の当時は強いアイデンティティがこめられていたんですね。

 

家紋について言及し始めるとまた一記事始まるので、今日はこのへんで。

ではまた。

 

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