【地名】「鍛冶橋」坂本龍馬は国際フォーラムから三越本店間を通い続けた〜地名を読み解くシリーズ第3弾
東京ー大阪間の移動は夜行バス。ぼく(ぼくみん (@b0kumin) on Twitter)です。
東京駅八重洲口から歩いて数分のところにある鍛冶橋交差点。
この近くにあるバスターミナルは夜10時前後になると5分おきにバスが全国に向けて出発し、ぼくもよくお世話になります。
さて今回読み解く地名は、東京〜有楽町間の交差点の名前にもなっている鍛冶橋(かじばし)。
出典:GoogleMap
出典:大江戸今昔めぐり
かつて存在したその鍛冶橋は、江戸時代には江戸城まで伸びており、橋のたもとには外郭門の一つである鍛冶橋御門がありました。
出典:大田区 狩野探幽印章瓢箪形の墓 鍛冶橋・浜町・木挽町狩野家の墓10基
明治維新で鍛冶橋御門は石垣を残して撤去され、さらには終戦後の瓦礫処理で外堀が埋められてしまい、橋そのものも姿を消して、今は移転された石垣と名跡が残るのみです。
江戸時代に話を戻すと、外堀の門外には鍛冶屋職人が暮らしており、町名が南鍛冶町であったことに由来して鍛冶橋と名づけられました。
またこのエリアには、御用絵師だった狩野探幽が鍛冶橋門外に与えられた屋敷がありました。
出典:大江戸今昔めぐり(現代と江戸時代の比較)
ここから少し日本史の話。
狩野派で特に有名なのは、織田信長に仕え、唐獅子図で有名な狩野永徳。
出典:Wikipedia
開祖である狩野正信の室町時代から、狩野派は時の政権の動きに機敏に対応して勢力を伸ばしていました。
徳川幕府の成立とともに狩野派は江戸へ進出を図り、狩野探幽(永徳の孫)もその一人として父と共に京都から江戸へ下りました。
1617年幕府御用絵師となって父の跡目を弟尚信に譲り、探幽は鍛冶橋門外に屋敷を拝領、京都の狩野宗家を弟安信に継がせ、自らは別家してその地名にちなんで鍛冶橋狩野家を興したのでした。
城門の外には鍛冶橋町と狩野家の屋敷があると話をしましたが、城門内には土佐藩山内家の上屋敷がありました。
出典:大江戸今昔めぐり
維新の志士坂本龍馬は、江戸に修行に来ていて上屋敷から千葉道場に通ったと、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』や豊田穣の『坂本竜馬』に記されています。(※上屋敷でなく、中屋敷に居たという説もあり)
坂本龍馬が上屋敷に身を寄せて千葉道場(玄武館:現在の中央区日本橋室町一丁目)まで通ったというのは、現在の位置関係だと東京国際フォーラムから日本橋三越本店まで剣術修行に通ったということになります。
出典:大江戸今昔めぐり
普段我々が歩く道を道場通いに龍馬も歩いたと想像すると歴史ロマンを感じますね。
以上、鍛冶橋の地名から江戸期の歴史を読み解きました。
こうして地名から紐解かれる歴史が学校で習った知識とつながっていると分かると、日本史がより身近に感じられますね。
これからも地名ハンターとして東京の地名を探求していきます。
今日はこのへんで。
ではまた。
最後に。
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