【地名】明暦の大火を機にさらなる発展を遂げた江戸〜地名で読み解くシリーズ第6弾
中高生時代にハマった胸熱漫画は「め組の大吾」、ぼく(ぼくみん (@b0kumin) on Twitter)です。
五味さん懐かしいなぁ。
今の皇居を中心とする東京周辺の地名を調べると、必ずと言っていいほど出てくる歴史的な出来事があります。
明暦の大火。
4代将軍徳川家綱の時代、1657年の冬に江戸の大半を焼いた大火災です。
出典:江戸火事図巻(Wikipedia)
戦禍、震災を除くと日本史上最大の火事とも言われる明暦の大火について、今回は調べてご紹介します。
項目立てて紹介していきます。
●火元
この火災の特記すべき点は、火元が1か所ではなく、本郷・小石川・麹町3か所から連続的に発生したということ。ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生、結果的に江戸中心部の6割が焼き尽くされました。
一部の情報では幕府放火説があり、飽和状態だった江戸の人口と住宅事情を解消するために幕府が江戸市街を焼け野原にしようと画策したという話も聞こえてきます。
●火災が大規模になった原因
冬という乾燥して雨の少ない季節と北西の季節風「空っ風」による北からの強風、また当時の貧弱な防火体制では延焼を防ぐことはできませんでした。
当時の消火組織は、将軍が大名を緊急招集する奉書火消(担当が明確でなく無意味)と、六大名が火消し役となって火災に備える態勢をとる大名火消が存在しました。しかし、城内で起こる火災が町家まで及んだ時の対応にまでは手が回るような体制ではありませんでした。
また当時の消火活動は、燃えている家屋は放置してその周辺の家々をどんどん破壊していく、いわゆる破壊消火活動でした。延焼防止には有効な手段でしたが、同時多発的に起きた明暦の大火では手が回らなかったと考えられます。
●被害の範囲
外堀以内のほぼ全域、江戸城、大名屋敷160余、旗本屋敷770余、町屋敷40町、市街地の大半を焼失しました。これは現在の千代田区と中央区のほぼ全域、文京区の約60%、台東区、新宿区、港区、江東区のうち千代田区に隣接した地域一体にあたります。(Wikipediaと報告書(1657 明暦江戸大火) : 防災情報のページ - 内閣府より引用)
また、死者は3万から10万人とも言われており(残された文献で数字が様々)、この時期の推定人口が29万人(Wikipediaより)ですから、いかに被害が大きかったかが分かります。
●被害を受けた主な建造物
・江戸城の大部分→本丸、二の丸、大奥、天守閣。天守閣はその後一度も再建されていません。(莫大な費用がかかるため)
・城内にあった御三家の屋敷→火事を契機に江戸城外に転出するとともに、それにともなって武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転。
出典:Social Studies
・日枝神社→1478年太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(関東天台宗の本山、現在の喜多院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのが始まりとされています。徳川家康が江戸に領地替えされたとき、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とします。
1604年からの徳川秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町(現在の国立劇場のあたり)に遷座し、庶民が参拝できるようになりましたが、明暦の大火により社殿を焼失したため、4代将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地にあて、現在地に遷座しました。ちなみに、この地は江戸城から見て裏鬼門位置し、表鬼門は上野の寛永寺です。
・浅草の東本願寺→ 神田明神下にありましたが、明暦の大火で焼失したため、現在の浅草(田原町)に移転しました。
・西本願寺→【地名】「溜池山王」川の流れに沿って点在する江戸の名残り〜地名を読み解くシリーズ第5弾 - ぼくはこう思う、みんなはどう?の記事でご紹介しました。現在の東日本橋から築地に移転しました。八丁堀の海上が与えられた理由についても、埋立地造成のコストを抑えるためと考えられます。江戸時代初期、江戸城目前まで入り込んでいた日比谷入江を埋め立てる際も、外様大名に屋敷地としての土地を与え、埋め立てを大名自身に行わせ、土地造成を行っています。
焼失した建造物はまだまだありますが、このあたりで。
ちなみに、これほどまでに大規模な火災だったにも関わらず炎症を免れた建物が、新橋にある烏森神社。
「火災を免れた神社」ということでパワースポットと言われているようです。笑
●防火強化対策
徳川御三家の藩邸を移転させ、跡地に馬場や薬園などとし延焼防止帯を設置します。
御三家の移転先はそれぞれ、水戸藩→現在の東京ドームと小石川後楽園、尾張藩→防衛省市ヶ谷地区、紀州藩→現在の赤坂御用地です。
出典:Social Studies
隅田川東岸に深川など市街地が拡大されるとともに、吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進みました。
火除け地や延焼を遮断する防火線として広小路(幅を広く取られた道、当時は珍しかった)が新たに設置されました。上野広小路などの地名が現在も残っています。
読んでお分かりいただいたように、明暦の大火は江戸市中を焼き尽くして大量の死傷者を出した大規模な火事でした。
しかし歴史的な視点、あるいはドライな視点で見れば、この火事によって当時江戸が抱えていた人口過密問題やそれに伴う衛生環境の悪化、治安の悪化を解消すべく、江戸の市街地再編、都市改造が進むことになりました。また、埋立地の形成や人口過密エリアの郊外移転により江戸は都市としてさらに拡大していくことになり、家康〜家光までが築いた初期の江戸から大きく発展するきっかけになったとも言える出来事だと言うこともできます。
ずっと気になっていた明暦の大火を知ることができ、今回もかなり満足です^^
今日はこのへんで。
ではまた。
最後に。
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