【地名】江戸城三十六見附の橋シリーズその1〜地名を読み解くシリーズ第9弾
ぼく(ぼくみん (@b0kumin) on Twitter)です。
前回の記事で、赤坂見附が江戸城の人の出入りを見張る門番の番所であったことをご紹介しました。
詳しくはこちら→【地名】架かる橋は江戸城防御の名残り〜地名を読み解くシリーズ第8弾 - ぼくはこう思う、みんなはどう?
また、赤坂見附のように江戸城の警護の役目を持った見附(番所)が36個あってそれらを江戸城三十六見附と言い、多くに橋の名前が使われているということもお話ししました。
そこで今回は、江戸城三十六見附の中で「橋」がつく見附の地名、歴史を読み解いていきます。
数が多いため、数回に分けたミニシリーズとして展開します。
もう一度「橋」がつく見附を羅列します。
幸橋門、山下橋門、数寄屋橋門、鍛冶橋門、呉服橋門、常磐橋門、神田橋門、一ツ橋門、雉子橋、竹橋、北詰橋、二重橋
この中から今回は鍛冶橋門を除いて、幸橋門、山下橋門、数寄屋橋門、呉服橋門を読み解いていきます。
●幸橋門
出典:GoogleMap
出典:大江戸今昔めぐり
地理的には外濠川との合流地点西側の汐留川に位置しますが、溜池と汐留川の西域は最も早く開発が始まり、明治時代には門が撤去されています。
出典:アイ・マイ・ミー:幸橋御門=江戸城三十六見附,明治時代撤去も内幸町の地名由来
地名はこの辺りの町名が幸町だったことから名付けられました。幸町自体はもうなくなってしまいましたが、この幸橋門の内側にある地域を内幸町と名付けてその名残を今に伝えています。
また、下の絵画は外堀の汐留川に架かる幸橋門の前を練り歩く烏森稲荷の祭列が描かれています。
●山下橋門
出典:GoogleMap
出典:大江戸今昔めぐり
地名はこの辺りの町名が山下町だったことから名付けられました。
今はなき山下橋ですが、歌川広重の作品に『山下門』という浮世絵があります。
同じく広重の作品で『山下町日比谷外さくら田』というものもあります。
●数寄屋橋門
出典:GoogleMap
出典:大江戸今昔めぐり
江戸時代初期に織田信長の弟で茶人大名の有楽斎という人の屋敷があったことに由来する現在の有楽町。
また有楽屋敷内の数奇屋造りの建物から、数寄屋橋の名がつけられました。
●呉服橋門
出典:GoogleMap
出典:大江戸今昔めぐり
呉服橋門は、外堀の外域に幕府御用達の呉服商が多く住んだことから名づけられました。
呉服橋はその後明治初期に地名となりましたが、昭和22年からは日本橋呉服橋と改称、そして昭和29年に八重洲となり、その名前は地名からも消え去りました。現在は呉服橋交差点と首都高速の呉服橋ランプの名称として残っています。
今日はこのへんで。
次回は呉服橋門のすぐ近くにあった常磐橋門からスタートします。
ではまた。
最後に。
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