【米選挙7】注目すべきは史上初の全オンライン選挙活動
今年の目標にTOEICを受験することが加わったぼく(ぼくみん (@b0kumin) on Twitter)です。
前回の記事でサンダース氏の撤退をお伝えしました。
下記は、8日のサンダース氏の撤退宣言の際の発言です。
この国を襲う危機の中、勝ち目のない選挙を続けることは道義上できない。
この発言に至った経緯をある記事で知ることができました。
決定的になったとみられるのは、7日に中西部ウィスコンシン州であった予備選だ。民主党の州知事の延期要請を、州議会で多数を占める共和党が受け入れなかった結果、民主党支持者らはマスク姿で投票所に長蛇の列を作らざるを得なかった。この姿が繰り返し報じられた翌朝、サンダース氏は撤退を表明した。
引用:4年前と違ったサンダース氏 「信念の人」屈したマスク:朝日新聞デジタル
また選挙活動そのものや資金面でも苦戦を強いられていたようです。
選挙集会での若年層ら多数の聴衆を鼓舞する弁舌で求心力を高め、草の根の支持を集めてきたサンダース氏。近距離での人と人の接触を断たれ、こうした手法は当面使えない。経済活動はマヒし、収入が途絶えた若者から薄く広く小口献金を募るのも困難になった。
予備選挙の延期がなされずに投票のために国民が並ばなければならないのをニュースで知って、サンダース氏は「今のアメリカの状況ではもう選挙を争うべきではない」と思われたのかもしれません。
そうだとしたら至極まっとうな考えを持たれていて、ぼくはサンダースさんがますます好きになりました。
11月の本選挙に向けての討論など、アメリカは選挙の方法をアップデートしました。
オンラインです。
コロナ危機下の米大統領選 集会中止、舞台はネット (写真=AP) :日本経済新聞
このオンラインのやり方を日本もいずれ真似るでしょうから、その意味では11月まで目が離せませんが、選挙結果としては個人的にはトランプ氏が勝つのではないかと思っていて、ここからの戦いそのものにはそれほど魅力を感じていません。
気の早い話ですが、むしろ4年後の予備選挙を楽しみにしているくらいです。そのくらいこの2ヶ月はエキサイティングな体験でした。
4年後までに字幕なしで映画を見られて、ネイティブの早口英会話にもついていけるようにこれから英語スキルを磨いていこうと思います。
今日はこのへんで。
ではまた。
最後に。
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【地名】江戸城三十六見附の橋シリーズその2〜地名を読み解くシリーズ第9弾
好きな橋は勝どき橋、ぼく(ぼくみん (@b0kumin) on Twitter)です。
前回の記事で、江戸城三十六見附で「橋」がつく見附(番所)の一部を紹介しました。
今回はその続きで、常磐橋門、神田橋門の2つの名前を読み解いていきます。
まずは常磐橋門、神田橋門とその近くにある3つの見附の位置関係から。
出典:GoogleMap
出典:GoogleMap
出典:大江戸今昔めぐり
①→以前ご紹介した呉服橋門【地名】江戸城三十六見附の橋シリーズその1〜地名を読み解くシリーズ第9弾 - ぼくはこう思う、みんなはどう?
②常磐橋門
③神田橋門
④一ツ橋門
⑤雉子橋門
現在の皇居を中心として北を0時とすると、ちょうど時計の針の3時の方向から0時の方向までの外堀を警護していた門ということになります。
●常磐橋門
出典:GoogleMap
出典:大江戸今昔めぐり
常磐橋門。「常盤」ではありません。皿だと割れて縁起が悪いことから盤ではなく磐の字を使われています。
名前の由来は定かではなく、『金葉和歌集』巻第一の「色かへぬ松によそへて東路の常磐のはしにかかる藤波」(大夫典侍の歌)からとも、松の常盤(ときわ=永久不変なこと、つまり常葉)にかけて徳川(松平)の治世の存続を願ったという説もあって定かでありません。
この常磐橋門は、江戸城外郭の正門にあたる重要な門で、石垣が現存しており国の史跡となっています。また、奥州道へと通じる玄関口で、田安門(上州道)、神田橋門(芝崎口)、半蔵門(甲州道)、外桜田門(小田原口・旧東海道)と並ぶ「江戸五口」のひとつとされました。
現在もこのエリアは、日本銀行本店があるなど日本経済にとって重要な場所となっています。
ちなみに、呉服橋側(日本橋地区)と常磐橋側(神田地区)を結ぶ一石橋の命名には面白い由来があります。
北橋詰の本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤の援助により再建されました。そのため後藤の読みから「五斗」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から一石橋と名付けられたと伝わっています。また、そのまま「後藤橋」とも呼ばれていたそうです。
●神田橋門
出典:GoogleMap
出典:大江戸今昔めぐり
常磐橋門と同じく「江戸五口」のひとつ。
門内に土井大炊頭利勝の屋敷があったので、架かる橋は「大炊殿橋(おおいどのばし)」と呼ばれるようになり、その後、橋の北側の地名から「神田橋」に改められたそうです。
神田橋は江戸時代から関東大震災までずっと木製の橋で、1923年の関東大震災で消失してしまい、現在の橋は1926年に完成しました。
歴代将軍が上野寛永寺や日光東照宮へ出向く際の動線が神田橋門から筋違橋門だったので、警備は厳重だったそうです。
また常磐橋と神田橋の中間あたり(現在の神田橋ジャンクションあたり)から隅田川の浜町付近を結ぶ「竜閑川」と呼ばれる人工の堀がつくられ、江戸の物流を担う動脈の一つとして機能していました。その名残として近くには「河岸」のつく地名「鎌倉河岸、錦町河岸、一ツ橋河岸)や竜閑橋交差点が残されています。
一つ一つの橋にはしっかり歴史が詰まっていますね。
次回は一ツ橋門から地名を読み解いていきます。
今日はこのへんで。
ではまた。
最後に。
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【米選挙6】サンダース氏撤退、民主党候補はバイデン氏に
スーパーチューズデー以降も地味に米予備選挙を追っていたぼく(ぼくみん (@b0kumin) on Twitter)です。
ついにサンダース氏が撤退を決めました。
米大統領選、民主バイデン氏指名確実 サンダース氏撤退 (写真=ロイター) :日本経済新聞
ネット上で語られることには、左派革新派だった人もコロナショックによって思考がより現実的になったため、サンダース氏の旗色はかなり悪かったそうです。
十分考えられる話ですよね。
サンダース氏は「富を分配しよう」という政策のカラーでここまで戦ってきました。コロナショックから立て直すという最重要任務を果たす必要があるアメリカにはバイデン氏の方がより需要が高まったんだと思います。
海外の情報を見聞きするに従って、サンダース氏の頑固だけど憎めないキャラクター(勝手な憶測です)見え隠れして【ぼくはサンダースさんが好き】でした。
出典:米民主党ニューハンプシャー予備選、サンダース氏が勝利宣言
それにしても、スーパーチューズデー時点では予備選挙がこのような結末を迎えるとは夢にも思いませんでした。
バイデンさん、サンダースさん、そしてすでに撤退された他の候補者の方々、本当にお疲れ様でした。
バイデンさんには本選挙まで英気を養っていただきたいところですが、コロナショック対応にもぜひ全力で対応していただきたいと思います。
ひとまずこのブログの米国予備選挙シリーズは一旦終了。
次回はVSトランプ現大統領と戦う本選挙ですね。
今日はこのへんで。
最後に。
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ではまた。
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【地名】江戸城三十六見附の橋シリーズその1〜地名を読み解くシリーズ第9弾
ぼく(ぼくみん (@b0kumin) on Twitter)です。
前回の記事で、赤坂見附が江戸城の人の出入りを見張る門番の番所であったことをご紹介しました。
詳しくはこちら→【地名】架かる橋は江戸城防御の名残り〜地名を読み解くシリーズ第8弾 - ぼくはこう思う、みんなはどう?
また、赤坂見附のように江戸城の警護の役目を持った見附(番所)が36個あってそれらを江戸城三十六見附と言い、多くに橋の名前が使われているということもお話ししました。
そこで今回は、江戸城三十六見附の中で「橋」がつく見附の地名、歴史を読み解いていきます。
数が多いため、数回に分けたミニシリーズとして展開します。
もう一度「橋」がつく見附を羅列します。
幸橋門、山下橋門、数寄屋橋門、鍛冶橋門、呉服橋門、常磐橋門、神田橋門、一ツ橋門、雉子橋、竹橋、北詰橋、二重橋
この中から今回は鍛冶橋門を除いて、幸橋門、山下橋門、数寄屋橋門、呉服橋門を読み解いていきます。
●幸橋門
出典:GoogleMap
出典:大江戸今昔めぐり
地理的には外濠川との合流地点西側の汐留川に位置しますが、溜池と汐留川の西域は最も早く開発が始まり、明治時代には門が撤去されています。
出典:アイ・マイ・ミー:幸橋御門=江戸城三十六見附,明治時代撤去も内幸町の地名由来
地名はこの辺りの町名が幸町だったことから名付けられました。幸町自体はもうなくなってしまいましたが、この幸橋門の内側にある地域を内幸町と名付けてその名残を今に伝えています。
また、下の絵画は外堀の汐留川に架かる幸橋門の前を練り歩く烏森稲荷の祭列が描かれています。
●山下橋門
出典:GoogleMap
出典:大江戸今昔めぐり
地名はこの辺りの町名が山下町だったことから名付けられました。
今はなき山下橋ですが、歌川広重の作品に『山下門』という浮世絵があります。
同じく広重の作品で『山下町日比谷外さくら田』というものもあります。
●数寄屋橋門
出典:GoogleMap
出典:大江戸今昔めぐり
江戸時代初期に織田信長の弟で茶人大名の有楽斎という人の屋敷があったことに由来する現在の有楽町。
また有楽屋敷内の数奇屋造りの建物から、数寄屋橋の名がつけられました。
●呉服橋門
出典:GoogleMap
出典:大江戸今昔めぐり
呉服橋門は、外堀の外域に幕府御用達の呉服商が多く住んだことから名づけられました。
呉服橋はその後明治初期に地名となりましたが、昭和22年からは日本橋呉服橋と改称、そして昭和29年に八重洲となり、その名前は地名からも消え去りました。現在は呉服橋交差点と首都高速の呉服橋ランプの名称として残っています。
今日はこのへんで。
次回は呉服橋門のすぐ近くにあった常磐橋門からスタートします。
ではまた。
最後に。
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【地名】架かる橋は江戸城防御の名残り〜地名を読み解くシリーズ第8弾
つい声に出したくなる日本語コレクター、ぼく(ぼくみん (@b0kumin) on Twitter)です。
コレクションの一部を紹介すると、自薦他薦問いません、ブドウ糖果糖液糖、コショウ少々、副鼻腔炎、赤坂サカス。
ぜひ声に出して読んでみてください。この感覚を共有できる人がいたらとても嬉しいです^^
以前の記事で紹介した溜池山王にもほど近い赤坂。
出典:GoogleMap
赤坂サカスやアークヒルズ、東京ミッドタウンなどの商業ビジネス施設と高級住宅地がある、都内でも有数の地価の高いエリア。
駅でいうと千代田線の赤坂駅か、銀座線丸ノ内線の赤坂見附駅が最寄りです。
今回は、この駅名「赤坂見附」に注目しました。
見附とは何なのか。見附とは見張り番所のことを言います。
現在も赤坂見附の交差点近くに趣のある橋が架けられていますが、江戸城内に入るための橋が外堀に架けられ、城門が設けられて、そこを行き来する人を監視する見張り番のための施設でした。
出典:弁慶橋
江戸城にはこういった見張り番のための施設、見附が36個あったとされ、江戸城三十六見附(えどじょうさんじゅうろくみつけ)と呼ばれます。
赤坂見附はこの三十六見附のうちのひとつだった、ということです。
城のお堀というと、城をぐるりと一周取り囲むものを想像しますが、江戸城の外堀に関しては図のように螺旋状に江戸城の大手門から浅草橋まで環濠を廻らせていました。
以前に紹介した鍛冶橋御門(【地名】「鍛冶橋」坂本龍馬は国際フォーラムから三越本店間を通い続けた〜地名を読み解くシリーズ第3弾 - ぼくはこう思う、みんなはどう?)についても三十六見附のひとつ、そして下記が三十六見附と言われる場所です。
浅草見附/筋違見附/小石川見附/牛込見附/市谷見附/四谷見附/喰違見附/赤坂見附/虎ノ門/幸橋門/山下橋門/数寄屋橋門/鍛冶橋門/呉服橋門/常磐橋門/神田橋門/一ツ橋門/雉子橋門/竹橋門/清水門/田安門/半蔵門/桜田門/日比谷門/馬場先門/和田倉門/大手門/平川門/北詰橋門/西の丸大手門/西の丸玄関門(二重橋)/坂下門/桔梗門/下乗門/中之御門/中雀門(引用:Wikipedia)
見て分かる通り、門の名前に橋がついているものが多数見られます。
江戸城を隔てる外堀に架かった橋にちなんで名付けられたものと思われます。
名前に「橋」がついている下記11個(鍛冶橋は以前の記事で紹介済)について、地名を読み解くシリーズ内のミニシリーズとしてこれから複数回に分けて橋の名前を読み解いていきます。
幸橋、山下橋、数寄屋橋、(鍛冶橋)、呉服橋、常磐橋、神田橋、一ツ橋、雉子橋、竹橋、北詰橋、二重橋
都内皇居周辺は本当に江戸城にちなんだ地名が多くて本当に驚きです。
これからも地名ハンターとして、地名に隠された歴史を読み解き、みなさんに地名の魅力を伝えていこうと思います。
今日はこのへんで。
ではまた。
最後に。
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●【地名】東海道にまつわる地名〜地名を読み解くシリーズ第8弾 - ぼくはこう思う、みんなはどう?
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【地名】東海道にまつわる地名〜地名を読み解くシリーズ第8弾
街歩きは好きだけど、時間があるからと近所を散歩するのは苦手。ぼく(ぼくみん (@b0kumin) on Twitter)です。
今回は東海道沿いに点在する地名を読み解いていきます。
東海道とは
徳川家康は1601年にに江戸から京都までの間に伝馬制度を設けました。 徳川家公用の旅行者に、荷物運びのための人足と馬の供出を土地土地の有力者に命じたのが東海道の始まりと言われています。 江戸から京都へ行く間、53箇所で人馬の継立てを行ったことから、「東海道五十三次」という言葉が生まれました。 これが幕府公認の東海道の成立です。
引用:C¹ÆÍH
●日本橋
江戸の起点、日本橋。
現在は首都高の陰に隠れてしまい、訪れると想像と違って少しがっかりする場所ですが、首都高の地下トンネル化で日本橋に青空が戻るかもしれないというニュースもあります。
「3200億円の青空」に賛否 日本橋の首都高移設始動|オリパラ|NIKKEI STYLE
地名の由来は、将軍の命によって江戸の中央に諸大名が架けた橋、すなわち江戸第一の橋、日本を代表する橋ということから日本橋と呼ばれました。
ちなみに、現在も橋についている「日本橋」の銘板は15代将軍徳川慶喜が揮毫したものです。
高速道路にも同じく「日本橋」と銘板がありますが、こちらは慶喜公が揮毫した文字を切り貼りして縦書きから横書きにしたもの。何とも失礼な話です。
●京橋
東京駅にほど近い京橋。
戦後の瓦礫処理で埋め立てられて、橋そのものの存在を見ることはできません。
日本橋から東海道五十三次を京へ上る最初の橋だったことから名前がつきました。
歌川広重『名所江戸百景』より京橋竹がし
●小伝馬町
東京メトロ銀座線の駅でおなじみの町名です。
伝馬(てんま)
江戸時代、諸街道の宿駅常備され、公用の人や荷物の継ぎ送りにあたった馬をいう。伝馬を使用できるものは幕府の公用,諸大名,公家などの特権者であったが,これには無賃の朱印伝馬と定賃銭を払う駄賃伝馬の2つがあった。
引用:コトバンク(一部省略)
伝馬とは、五十三次を行き来する有力者のための馬、また次の宿駅や目的地まで運ぶ制度そのものを意味しました。
五街道が整備されて日本橋がその基点になると、旅行用の馬、籠(かご)や飛脚、人足の世話を取り扱う伝馬役がここに置かれました。
またこの駅周辺には、日本橋大伝馬町と日本橋小伝馬町の二つの地名が存在します。
大伝馬町にはより多くの馬が準備されたため、大伝馬町、小伝馬町とそれぞれ名前がつけられました。また、中伝馬町など他にも伝馬のつく地名は存在したようです。
また小伝馬町には牢屋敷があったことでも知られ、ここで刑死した吉田松陰の碑が今も十思(じっし)公園残されています。
出典:【吉田松陰終焉之地】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
かつては江戸への玄関口の役目をなした小伝馬町。呉服問屋、木綿問屋、旅籠(はたご)屋が軒を連ね、人馬の往来でにぎわっていたそうです。当時の繁栄は受け継がれ、現在は卸問屋街の機能を果たしています。
●馬喰町(ばくろちょう)
小伝馬町に隣接する馬喰町には、伝馬で使用する馬の仲介業者が住んでいました。
出典:東京メトロ
この仲介業者のことを「博労(ばくろう)」と言い、博労町と名付けられたのがいつしか馬喰町と言われるようになりました。
また、馬で生計を立てる人たちが必然的な集まり、博労以外に馬医師(うまくすし:今の獣医)などか多く住み、馬を扱う馬市が立ったそうです。
慶喜公が揮毫した日本橋の銘板のように、今もその目が見ることができる歴史や歩いて感じることができる歴史が地名に隠れています。
改めて地名の魅力に気づかされました。
冒頭でお話ししたように、東海道は江戸東京から京都まで続く長い長い街道だったので、まだご紹介しきれない地名がありますが、今日はこのへんで。
ではまた。
最後に。
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【地名】徳川御三家にまつわる地名あれこれ〜地名を読み解くシリーズ第7弾
ろうそくで生活していた大学生のある時期にあわやボヤ騒ぎを起こしかけたぼく(ぼくみん (@b0kumin) on Twitter)です。
【地名】明暦の大火を機にさらなる発展を遂げた江戸〜地名で読み解くシリーズ第6弾 - ぼくはこう思う、みんなはどう?の記事で明暦の大火によって徳川御三家の上屋敷(江戸における大名の本拠)は城外に移転されたとご紹介しました。
ここで気になったのが、徳川御三家。
水戸黄門でおなじみの徳川光圀は御三家だということは知っていますが、徳川御三家についての詳細をあまり知らないことに気づきました。
そこで今回は徳川御三家と御三家にまつわる地名を調べたので、ご紹介します。
そもそも、御三家とは。
御三家は親藩(一門)のうちで最高位にあり、将軍家や御三卿とともに徳川姓を名乗ることや三つ葉葵の家紋使用が許された。宗家(将軍家)を補佐する役目にあるとも言われているが、制度・役職として定められたものではない。元は、宗家の後嗣が絶えた時に備え、家康が宗家存続のために遺したものであるとも言われる。
引用:Wikipedia
そして、その祖となる人物は家康の息子たちが担いました。
出典:Wikipedia
時代劇の暴れん坊将軍でおなじみの8代将軍吉宗、実は宗家の血筋ではありません。
7代将軍家継が8歳で死去して宗家が断絶したことをうけて、紀州徳川家から養子に迎えられて吉宗が8代将軍となり、以降14代将軍家茂までは紀州家の血筋です。
そして最後の将軍慶喜は水戸家の血筋(正確には一橋家に養子に入った慶喜が将軍になったため、一橋家からの将軍継承)です。
こうして歴代将軍の血筋を知れば、御三家によって後継者問題が解消されていたこということがよく分かりますね。
さて、徳川御三家について調べる中で、御三家にまつわる東京地名が出てきたので、合わせてご紹介します。
出典:Social Studies
明暦の大火によって御三家の三藩は、水戸藩→現在の東京ドームと小石川後楽園、尾張藩→防衛省市ヶ谷地区、紀州藩→現在の赤坂御用地にそれぞれ移転します。
●尾張藩
・紀尾井坂、紀尾井町
明暦の大火以前、まだ江戸城内に三藩の上屋敷があった頃に名前がつけられました。
坂の周囲に紀伊藩(現・清水谷公園や元グランドプリンスホテル赤坂)、尾張藩(現・上智大学)、5人の家老を出した彦根藩井伊家(現・ホテルニューオータニ)の屋敷があったことから一字ずつとって「紀尾井坂」と呼ばれるようになりました。
出典:千代田区環境協会HP
江戸時代の正式な呼び名は「清水坂」でしたが、江戸の住人たちは要となる三家があった坂道であるところから紀尾井坂と呼ぶようになり、のちに後者が定着しました。
●紀伊藩
・清水谷公園
井伊家との境目付近が谷だったことと、井伊家との境目付近の紀州徳川家の屋敷から清水が沸き出ていたことから、付近は「清水谷」と呼ばれました。
1878年内務卿だった大久保利通が乗った馬車が襲撃され、紀尾井町清水谷で暗殺される事件が起こります。紀尾井坂の変です。
出典:ジャパンアーカイブス
この事件は人々に衝撃を与え、後に暗殺の現場となった当地に建てられた大久保利通哀悼碑の建立者から当公園付近が東京市(現在の東京23区)に寄贈されたことをうけて、清水谷公園となりました。
●水戸藩
・後楽園
水戸徳川家の上屋敷は現在の東京ドーム、庭園は、現在の都立小石川後楽園に位置します。
後楽園は徳川光圀が明の朱舜水の意見を採用して命名、完成させた江戸初期を代表する名園です。
・弥生町(やよいちょう)
水戸徳川家の中屋敷は、現在の東大農学部のある弥生キャンパス(農学部キャンパス)の場所にありました。住所は文京区弥生1-1-1。
なぜ弥生町なのかは、旧徳川邸内の歌碑に由来します。それは、徳川斉昭(1800~60年)の歌碑で、3月(弥生)に詠んだ和歌が刻まれていたことから、向ケ丘弥生町と命名されました。
ちなみに、弥生式土器の名称は、この向ケ丘弥生町で明治17(1884)年に発見されたことから名前が付けられました。
出典:世界の歴史まっぷ
最後に。
この記事の一番最初に出た家紋。水戸黄門で「この紋所が目に入らぬか」で出てくるアレです。
実は御三家で微妙にデザインが違います。
なんなら各将軍でデザインを変えてきています。
「葵紋は徳川家が使用するから、賀茂神社は神紋に葵を使うな」とさえ言ったそう。神社は拒否したそうですが。笑
家紋の意義が薄くなりつつある現在ですが、300〜400年前の当時は強いアイデンティティがこめられていたんですね。
家紋について言及し始めるとまた一記事始まるので、今日はこのへんで。
ではまた。
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